29...... 梨乃と俊介



俊介は走っていた。
梨乃は走っていた。

梨乃のいるところへ。
誰もいないところへ。



何かがおかしい。
俊介はそう感じていた。
何度梨乃にメールを送っても返事が来ない。
何度梨乃の携帯電話に掛けても繋がらない。
まるで自分が拒否されているかのように。
一体彼女は、梨乃は……何処にいるのか。
ついさっきまでオレンジ色をしていた空も、深い蒼色へと姿を変えつつあった。
辺りがどんどん暗くなる……梨乃を見つけるのも難しくなる。
学校内ならともかく、外ともなると何処にいるのか見当もつかない。

「(梨乃はまだ引っ越してきて日が浅い。あんまり遠くを散歩するとか無さそうだから、きっと家近くの何処かにいるはずだ)」

そう推理して探し回ることにした。
だが、悲しいかなその推理もすぐに暗礁に乗り上げる。
彼女に当てはめたものが、そっくりそのまま自分にも当てはまるのだから。
梨乃と俊介の差は、わずかに一ヶ月程度。
その間に俊介が覚えたのは、家から学校までと、それぞれの友人達の家の場所くらい。
探し回れるほど詳しく覚えてなんかいない。
おまけに時間は夜を迎えつつある。
目印になりそうなものは見えにくくなり、遠くの人の判別が難しくなる。
困難の度合いが、時間と共に増大していた。
梨乃の家、商店街、近くの公園……どこを探しても梨乃はいない。
めぼしい所はほとんど探した。
あと行ってないような所は……。

「(ん、まてよ)」

ピタリと足を止めて、考え込む。
自分の梨乃も、ほとんどこの街の事を知らない。
知っている限りのところは探した。
他に、自分達が知りえる場所で、行けそうな所は―――。

「(いや、まさかそんなはず。だって、梨乃は一度も……!)」

無意識のうちに足が向く。
もし間違いだったならば、確実に梨乃は見つからない。
まして、自分が再びここに戻ってこれるかすら分からない。
走りながら、俊介は財布の入ったポケットに手を置いた。
残金は恐らく問題ないはず……あとは、時間だ。
俊介は自分の知りうる一番の近道で最初の目的地である駅へと向かう。
時計の針はもうすぐ、19時を回ろうとしていた。
霞ヶ丘から春日井まで、電車で二時間ちょっと。
この時間帯に走っているホームライナーや通勤快速を利用しても、到着する頃には21時ごろになるだろう。
絶対にいるかもわからない大きな賭け。
だけど俊介は確信していた。
おそらく梨乃はあそこにいると。
大急ぎで切符を買うと、タイミングよく入ってきた下りの通勤快速へ飛び乗り、一路春日井へと向かう…。
数ヶ月前まで毎日を過ごしてきた思い出の町へ。そして梨乃と出会った町へ。
快速よりも停車駅の少ない通勤快速は次々と駅を通過する。
それ故乗る人も限られるけど、遠くから通勤する人にはありがたい速達手段。
混雑する車内で、時に人に揉まれながら一歩、また一歩と目的地へと近づいていく。

「(梨乃……)」

握っていた拳に、更に力が入った。


気がつくと、足が、身体が、ここに来ることを望んでいた。
どうやってここまで着たかはあまり覚えていない。
電車に乗ってきたことは覚えてる。
一人で初めて乗ったけど、案外何とかなるものだ。
やっぱりこんな時だからなにも気にしないのかな……。
梨乃はそっと足元の草むらに……川辺の堤防のように斜めになっている所へ腰掛けた。
あたりは真っ暗になり、見えるのは対岸の街灯と月明かりに照らされた水面がキラキラと輝いて見えるだけ。
あっちを出た時はまだ明るかったような気がする。
それだけ、ここは離れていると言うことか。
人気もなく、今の自分にはもってこいの場所だった。
こんな姿、他の人に見せられない……。
折り畳んだ膝を両腕で抱くように抱えると、間に埋めるように顔を落とした。
こらえていた涙が再び出てくる。
思い出したくない光景も、また……。

「(俊介くん……)」

彼はここにいる事を知らないだろう。
いや、知られたくない。
今は会いたくない。
会ったとして、何を話すというのだ。
あの光景を見てしまった梨乃にとって、残酷この上ない。
だからこそ今は、何もかも忘れて、涙と一緒に流せるくらい泣いてしまいたい。
こういう場所だから。俊介と一緒によく来た場所で、彼と最初に別れた場所だから。
あれからまだ三ヶ月しか経っていない。
目を瞑れば、あの時の光景が蘇ってくる。
俊介との別れのとき、梨乃はこう言って送り出した。

『“行ってらっしゃい”俊介くん』

口から自然と漏れたこの言葉。
もとより返事は期待してない。
だって今は一人だから。
だから……まさか言葉が返ってくるなんて思わなかった。
何より、他に人がいたなんて、思わなかった。

『ただいま、梨乃……』

その時、梨乃はハッと顔を上げた。
暗い空。静かな空間。
そして自分の目の前に立つ一人の影……。
彼、千堂俊介はそこにいた。

「しゅんすけ……くん?!」

思わず立ち上がる。
ウソでも幻でもない。
本当に俊介は目の前にいた。
肩で大きく息をしているところを見ると、ここまで走ってきたのだろう。
学校の制服のままだし、もしかしたらさっきの後すぐに……

その時、梨乃を押さえ込んでいた……たがが外れた。
思っていた何もかもが、止め処なく溢れてきた。

「なんで……なんで来たの?」
「えっ。り、梨乃?」

俊介は驚いている。
無理もない。あって一言目がコレだから。
でも、そんな事はお構いなしに梨乃は続けた。

「どうして私を追いかけてきたの?! 相手が違うでしょう? 俊介くんが追いかけなきゃいけないのは私なんかじゃない! 茜ちゃんなんだよ!!」

俊介の目が大きく開く。
まさか、あの時の光景……梨乃に見られてた?!
少なくとも自分は見ていない。
と言う事は後ろ……自分も茜も気がつかない、更に後ろにいたって事か。

「り、梨乃。聞いてくれ! 俺は……」
「いやだいやだ! 俊介くんの話なんか聞きたくないっ! もう私に構わないで……お願いだから、惨めになるだけだから、私に話しかけないで!!」

完全に覚醒・暴走状態にある梨乃。
両耳を手で塞ぎ、身体を振り回し、今まで聞いたことのない声音で叫び、聞いた事のない勢いで俊介を拒絶する。
きつく瞑った瞳からは涙があふれていた。
でも、そんな事も気にしないくらい今の梨乃は思いを吐き出していた。
その一言一言が、俊介に突き刺さる。

「落ち着いてくれ梨乃! 夕方のはそんなんじゃない。茜とはそんなんじゃないんだ!」
「そんなんじゃないってなに?! あの手紙を出したのは茜ちゃんなんでしょう? 茜ちゃんは俊介くんのことが好きだったんだよ?!」
「だ、だからそれは……!」
「私だって、俊介くんのこと好きだった! 最初の頃は私に同情して付き合ってくれてるのかなって思ってたけど、そうじゃないって分かった時はすっごく嬉しかった。 俊介くんみたいな人となら、ずっと一緒にいたいって思った。だから、私は頑張って変わろうとした。心臓がドキドキ言いながらも抱きしめたりしたし、キスだってした。 それなのに、俊介くんは気がついてくれなかった。あの時……別れ際にここでキスした時も、むこうの学校の屋上で抱きしめた時も、俊介くんは全然気づいてくれなかった!」
「………………」
「私、俊介くんに振り向いてもらえるように頑張ったんだよ? 変わろうと思って、髪の毛も短くしたし、あすかちゃんに教えてもらってお化粧とかもしたりしたんだよ?  でも、それだけじゃ駄目だったんだよね。言葉無くして想いは伝わらない。今日の茜ちゃんを見て私は確信したんだ。どんなに行動しても、言葉が伴わないと意味が無いって。 私にはそれが足りなかったから。怖かったんだよ。直接伝えて、もし拒絶されたらどうしようって。私の今までがなくなっちゃったら嫌だなって。だから行動だけだった。 俊介くんが言ってくれるのを待ってた。私……馬鹿だよね。そうしてればきっと想いが通じ合うなんて考えてたんだから、大馬鹿だよね! 笑っちゃうよ……泣いちゃうよ……」

梨乃の心からの叫び。
初めて知る梨乃の本当の心の中。
両方の袖をぎゅっと握り締められながら、俊介は梨乃の言葉を聞いていた。
いや、聞くより他は出来なかった。
完全に、梨乃に呑み込まれていたから。

「もう何もかも手遅れだよ。私が俊介くんのこと好きって気持ちも、私が私でいられた時間も、全部! どうして、どうして気づいてくれないの!! 私、こんなに……こんなに―――――っ!!!」

そこまで言いかけると、梨乃は俊介を押しのけて走り出した。
草の生える坂を駆け下り、梨乃はそのまま……

「って、おい! 梨乃!!」

大慌てで後を追う俊介。
なかなかに急な勾配。しかも草が生えてて滑りやすい。
それなのに梨乃は信じられない速度で下り終えると、そのまま直進した。
梨乃が走った先は堤防沿いの道じゃない。
その先にあるのは……!

「梨乃ー!!」

俊介の叫びがあたりに響く。
それでも梨乃は止まらない。
徐々に詰まる距離。
近づく限界点。
そして、梨乃の体がガードレールを乗り越え宙を舞った――――

「梨乃!? くっそおぉ!!」

今までの加速をフルに利用して、俊介もそのまま地面を蹴る。
ガードレールを乗り越えるなんて時間の無駄なことなんかしてられない。
ならば飛び越えてしまえばいい。
右足で地面を思いっきり蹴ると、その勢いでさらにガードレールの手すりを左足で力いっぱい蹴って身体を前に押し出す。
寸前まで迫っていた梨乃の身体にあっという間に追いつくことが出来た。
空中なのに、自分でも不思議なくらいゆっくりと動いていた気がする。
そのゆったりとした時間の流れの中で、俊介は梨乃の身体を両腕でしっかりと受け止め抱きしめる。
身体を守るようにぎゅっと腕で包むと、身体の向きを変えて、自由落下に身を任せた。
ここから急に速度が元に戻る……。
しっかりと梨乃を抱きしめた姿勢のまま、俊介は自らが先に着水するように向きを変えて、そのまま……

タッパアァーン!!

背中を叩かれたような痛み。
それと同時に、身体中を冷たい水が駆け抜け酸素を奪われた。
ゴボゴボと言う音と、まとわり着くような感覚。
水中でカッと目を見開くと、梨乃を抱きしめたまま水面を目指す。
夜の川は真っ暗で何も見えない。
でも、ゆらゆらと光る水面を目指し、一気に浮上した。

「ぷはッ!! り、梨乃……」
「………………」

俊介に抱きしめられた梨乃は胸にうずくまる様にしていた。
全身が濡れてるから、それが涙なのか水なのかは分からない。
ただ、今ので俊介も覚醒状態になったのか、抱きしめたままの状態で梨乃のことをじっと見つめると、そのまま……

「んっ?! ……むぅっ……んっ……!」

ムードも何もあったものではない。
ただ梨乃をぎゅっと抱きしめ、強引に唇を奪っていた。
数秒か、それとも数十秒か。
奪ったときと同じくらい強引に、俊介は唇を離した。

「……ぷぁ! はぁ……はぁ……」
「はあ……はあ……はあ……」

唇を離しても、身体だけは離さない。
ぎゅっと抱きしめたままお互いがお互いを見つめていた。

「俊介……くん……?」
「ふざけるなよ……自分一人だけ言うだけ言って、それでオサラバかよ。それはないだろ?」

そう言って、また唇を塞ぐ。
梨乃はただされるがまま……俊介の行動に圧倒されていた。

「……っ。俺だってな、梨乃のこと……好きなんだからな!」
「んんっ!! ……んっ……ふっ…」

一つ言葉を摘むごとに、唇が重なる。
お互いに覚醒状態にあるから、思ったこと考えたことがそのまま行動に反映されるようだ。
水面に浮いたまま、俊介と梨乃はキスを続ける。
途中から、ついに言葉も出なくなった。
ただお互いの唇をむさぼるが如く、俊介も、そして梨乃も………………。


その日、籠原家執事長である大石は我を忘れるくらいに驚いた。
寝ようとしていた他のお手伝いさんが、『すわ敵の襲来か!?』と飛び起きてしまうくらいに。
もし梨乃の両親がいたら、何事かと思うだろう。
それくらいに、驚くような出来事だったのだ。
即ち――――

夜遅く、突然家のチャイムが鳴った。
出てみるとそれは梨乃だった。
それだけでも驚きなのに、更に隣には俊介もいて、おまけに二人とも着衣水泳でもしてきたかのように全身ぐっしょりと濡れていたのだ。
これで驚かずして、何処で驚くというのだろう。
その後はもうてんやわんやの大騒ぎ。
風呂か?! いやそれよりもタオルが先か。濡れた服はどうするだのなんのと……。
家に残っていた他のお手伝いさんも総動員して、やっと落ち着いた頃には、すでに0時を回ろうとしていた。
この頃にはもう二人ともすっかり元の落ち着きを取り戻していて、特に俊介に至ってはここでは来客扱いのためかすっかり縮こまっていた。
梨乃の表情が妙に晴れ渡っていたのは、先程のこととは他に、実家に帰ってきたという安心感もあるからだろうか。
お手伝いさんによって温かいココアを入れてもらって、シャワーで温まった身体に染み渡らせる。
初夏とは言え、川の水は冷たい。
まして時間は夜。それも結構な時間そこにいたんだから、冷えても無理はない。
今はただ静かに、お互いに寄り添ったまま甘いココアを飲んでいた。
言葉は要らない。こうしているだけで、不思議と落ち着いて来るんだから……。
しばらくして、最初に言葉を出したのは俊介だった。

「なぁ、梨乃……」

空になったコップを手の中で回しながら言う。

「さっき言ったこと、嘘じゃないぞ。俺、本当に梨乃のこと、好きなんだ」
「俊介くん……」
「あの時な、確かに茜に告白された。だけど、断ったんだ。そしてその時思った。俺はやっぱり、梨乃の事好きなんだなって」
「ほんとうに?」
「ああ。でなきゃここまで追いかけたりしないって」
「……よく、私がここに戻ったってわかったね」
「最初はわからなかった。あっちで知ってる限り探したけど見つからなくて、それで……もしやって」
「すごいなぁ、俊介くんは。さっきは、あんな事言っちゃったけど……本当はすっごく嬉しかったの。私のこと、追いかけてきてくれたんだなって」
「ま、まぁ……な。梨乃の事好きだし、何より伝えようと思ったから……」
「うん…。もう、十分、伝わってるよー」

そっと梨乃が俊介の肩に頭を乗せる。
身体も寄りかかるように体重を掛けてきた。

「ごめん。梨乃の事、ずいぶん苦しめてきたみたいで」
「いいよ。もう。だって今は……こうしていられるから」
「梨乃……」
「ね、ぎゅっと抱きしめて。私のこと」

返事の変わりに、両手でしっかりと梨乃を包み込む。

「これからは、毎日こうしていられるね」
「ああ、梨乃が望むんだったらいつでもしてやる。もちろん、梨乃からだって大歓迎だ」
「うん……俊介くん」
「んん?」
「大好き、だよ」

そう言うと、梨乃はそっと俊介の唇に自分のそれを合わせた。








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