28...... 遠い青空
その日は、彼にとって忘れられない日になった。
その日は、彼女にとって忘れられない日になった。
そして……もう一人の“彼女”にとっても忘れられない日になった。
週末。金曜日。一週間の終わり。
月曜から続く長い学業もここで一区切り。
この後は楽しい楽しい放課後タイム。そして二日にわたる休日が学生達を待っていることだろう。
ホームルームを迎える学生達の様子が、妙に浮いた感じになっているところを見るとなお更。
まるで、早く終われとか、コレが終わったら……! と言う心の声が聞こえてきそうだ。
賑やかな教室。当たり前の光景。そんな中に、賑やかとは程遠い表情をしている者。
……俊介である。
なんと言うかこう、ぼぉっとした表情というのだろうか。
考えてることを外へ出さないようにしているのかどうかは分からない。ただ一点を見つめながら微動だにしていない。
両手をズボンのポケットに突っ込んで……更にその片方には例の手紙が握られている。
このホームルームが終わったら、自分はあの場所へ行かなければならない。
いざ当日ともなると、結構緊張してくるもんなんだな。
「(そう言えば、時間ってどうなってんだ?)」
放課後なんて、それはそれは範囲の広い…。何せホームルームが終わった時からが始まりだ。
終わりは……人それぞれ。日が暮れるまでとか、今日という日が終わるまでとか。
俺は何時に向かえばいいんだ?! なんてある意味どうでもいいことを考えてしまうくらい、今の俊介はテンパっていた。
何度も触れるが、これからのイベントは俊介にとって経験のないこと。
どうすればいいかなんてのは頭にない。結局マトモな相談をしないまま今日を向かえた。
ああ、だからかな。胃が痛いような気がするのは。
ふいに、教室がいつにも増して賑やかになった。
席を立つ者、誰かと楽しそうに話し始める者、大急ぎで教室を後にする者などなど。
どうやら、ホームルームが終わったらしい。
教壇に立つ先生も、書類かプリントをまとめるとそそくさと教室を後にしてしまった。
「(ついに来たか……)」
賽は投げられた。いや、すでにこの手紙を貰った時から投げられていた。
まもなく、もうまもなく自分は教室をあとにして校舎裏へ向かうだろう。
手紙をよこした人はもう待っているかもしれない。でも自分が先に着いて待つかもしれない。
どちらにせよ、運命の時間はもう目の前。
それでも俊介は動かなかった。
一人、また一人と教室を後にするクラスメート達。
だいぶ人が減ったところで、ようやく俊介が重い腰を上げたその時、待っていたかのように後ろから声を掛けられた。
「俊介くん……」
梨乃だ。とても不安そうな顔をしている。
それを見てズキリと心に響いた。
なんだろう。まるで出会った当初の彼女を見ているかのように。
今まで近くにいたように感じたものが、急に遠くなったような。そんな。
「ん、どした梨乃」
つとめて普通に返事をする。
「あ、あのね。私…ね……」
そこまで言って、尻すぼみの様に黙って俯いてしまう。
肝心な時に言葉が出ない。
「まあ、なんとかなるだろ」
「……えっ?」
ふいに俊介が言った。
「誰にせよ、とにかく会って話してみないと何ともいえないし。それに……」
「……それに?」
「こんなこと言ってる俺だけど、内心メチャクチャ緊張してるんだぞ? まさか自分が、なんてな」
梨乃の不安を取ってやりたい。
俊介が今彼女に出来ることといったら、それだけだった。
「だから、梨乃は何も心配しないでいてくれよ。俺は笑ってる梨乃が見たいんだ」
ポンと頭に手を載せて、そっと撫でる。
ほんの少しだけ梨乃の表情が和らいだ気がした。
「それじゃ、行ってくるよ。あれ、なんかヘンな挨拶だなこれ。行ってくる……? うーん」
「……ふふっ」
梨乃から小さな笑みがこぼれた。
うん。これでいい。梨乃にはいつもこうしていて欲しいから。
「いいんじゃないかな。行ってきますでも」
「そ、そうか?」
「うん。だから、行ってらっしゃい。俊介くん」
「お、おぅ……」
ちょっぴり違和感を感じながらも、今度こそ俊介は教室を後にする。
この先に待つのは、果たして――――
本当は、行かないで欲しかった。
私の側にいて欲しい。
私の隣にいて欲しい。
他の誰でもない。俊介くん、あなたが――。
俊介が去った教室で、梨乃は一人思った。
どうして、言えないんだろう…。
あと一歩が出てこない。喉の手前まで来てるのに、また、飲み込んでしまう。
たった今もそうだ。
あの時、本当に言いたかったこと。『行かないで』
それだけじゃただのわがままに聞こえるかもしれない。
でも、そのあとに続けたい言葉もあった。
……本当は、ずっと前から伝えたい言葉。
たった一言、好きだと、そう伝えたい。
どうして、自分は臆病なんだろう…。
去年までの自分とは確実に何かが違った。
あの頃の自分はとても輝いていた。
今にして思ってみればとても出来ないようなこともできた。
そうだ。ここに来たばっかりの時だって……。
あの時と今と、何が違うんだろう?
気持ちに変化はない。
むしろ強くなっている。
だけど、強くなればなるほど言葉は出なくなる。
……答えを聞くのが、怖いのかもしれない。
もし、自分が拒絶されたらどうしよう?
考えただけで震えが止まらない。
今までの自分が否定されるみたいで、とても怖い。
ならば、何も言わないでずっとこのまま……“友達”でいるのは……。
「……むり、だよ…」
胸の前で包み込んだ両手をぎゅっと握り締めた。
梨乃は気がついてしまっている。自分の気持ち。自分の想いに。
それらを隠して生きていくなんて、出来っこない。
例えひと時でも忘れたとしても、何かの拍子に思い出す。
そして、今以上に後悔する。悲しみが増える。
「どうしたらいいの……俊介くん」
答えの出ない問いを、今はここにいない人物に向かって尋ねる。
梨乃の言葉が、いつも以上に教室に響いた気がした。
ガラン、と静まり返った教室。
オレンジ色に染まりつつある教室。
まるで……まるで、去年の自分が今ここにいるみたいだった。
もう前と同じことは繰り返したくない。
私は、私は――――
梨乃は自分の鞄を持つと、俊介の後を追うように教室を後にした。
この時、彼女の心の中で何かが変わろうとしていた……。
心臓が、今までにないくらい早く動いてる。
なんだかすごく居心地が悪い。
ソワソワするというかなんというか。
ついに来た待ち合わせの場所。校舎の裏側。
俊介のほかには誰もいない。
目的の人はまだ着てないようだ。
それとも、やっぱりいたずらで俊介の行動を見て草葉の陰で笑っているのか。
余計なことまで考えるくらい落ち着かない様子だ。
ポケットから手紙を出して、もう一度読んでみる。
「(金曜日の放課後……校舎の裏側。間違いない、よな? 昨日も来て確認したし)」
そこで、改めてふと思った。ホームルームの時にも考えたこと。それは……
「(やっぱり、曖昧すぎるよな? 場所にしても、時間にしても……)」
放課後に関しては、先程俊介が考えたとおり。
人によって解釈はいろいろだ。
極論を言えば、委員会や部活が終わった時だって放課後。範囲が広すぎる。
それに、校舎の裏というのもまたなんとも。
学校は広い。当然校舎だって広い。
端から端までの、一体何処なのかという事。
昨日来てみたはいいけど、とりあえずここの何処か、というだけで終わってしまった。
もっとも、見通しが悪いわけではないから気付かないことはない。
反対側から人が来れば当然気がつく。
だから後は……
「(向こうから気付いてもらわないとな)」
相手の顔が分からないのだから、俊介では気づき様もない。
いくら校舎裏とて、人気がゼロのわけではないのだ。
部活生・生徒・先生など、用があればここを通る。
もうこうなったら待っているより他はない。
「(あー、喉が渇いてきた)」
手紙を折りたたむと、またポケットの中へ入れる。
一旦この場を離れて、喉を潤してからまた戻ってこようかな?
なんて考えたときだった。
「……ん、ちゃんといてくれた。なんだか嬉しいな」
俊介の背後から声が掛かった。
下を見れば、自分の影のほかにもう一つ影がある。
…ついに、その時がやって来たみたいだ。
顔を見ようと振り返ろうとすると、
「振り向かないで。そのまま……聞いて」
と先に言われてしまった。
むぅ、これでは誰かも分からない。
誰かは分からないけど……でも、この声は何処かで……。
「手紙、ちゃんと読んでくれた?」
「あ、ああ……」
「実はね、その手紙ってまだ未完成なんだ。どうしてか分かる?」
「えっ? 未完成って……?」
手の中にある手紙の内容を思い出す。
別におかしな所はないはずだ。
ただ一つ気になるとすれば……
「……好きって」
「うん。一言も書いてない。あなたが今、右手のポケットの中に持ってる手紙には“気になる”とだけしか。どうしてだかわかる?」
「……ごめん。わからない」
「本当はちゃんと書いてあったんだ。二枚目にはね。だけどだんだん恥ずかしくなって……捨てちゃった。だから手紙は一枚しかないし、好きって表現もない。でもそれだと意味を成さないでしょう? だから、考えを改めたんだ。それはね、今日この場で言おうと思ったからだよ……俊介」
えっ…?
心臓が大きく跳ねた。
自分の名前を呼び捨てにした。
こう呼ぶ人間はそんなに多くない。
そして聞いた事のある声。いや、聞いたことがあるどころか……
それにそれに、自分が持ってる手紙の場所を知ってるのなんて言ったらただ一人だけ。
昨日この場所でその光景を見ていた人物。
つまり――――
「茜、だったのか?」
「……うん。その手紙を書いたのは間違いなく私」
「だって、お前……昨日は……」
「振り向かないで。お願いだから」
無意識のうちに振り向こうとして、茜に止められる。
「これでも、いろいろ考えるところがあってね。だから、今日まで全然興味ないふりしてた。名前書いてないからバレるとは思ってないけど、自分から墓穴は掘りたくないしね。あははは」
「………………」
「ウソなんかじゃ、ないよ。私は本当に俊介のことが、友達じゃなくて、クラスメートでもなくて、一人の男の人として、好きだよ」
ついに茜の口から言葉が出た。
ハッキリと、俊介の耳にも“好きだ”という言葉が入ってくる。
「私ね、俊介と一緒にいて楽しかった。なんだか同じ匂いがするというか、雰囲気というか。だから毎日が楽しかったし、これからも続いたらいいなって思った。一緒にいられたらいいなっていうのも、思った」
飾らない素直な言葉。穂刈茜としての澄んだ言葉。
茜と一緒にいた時の俊介は確かに楽しかった。
言い方が悪いかもしれないけど、女の子だからって言う遠慮が少ないのもあったかもしれない。
まるで仲の良い友達同士がつるむ様なそんな関係。
時に笑い、時に怒り、時に泣く。いや、まだ泣くのはないか。
でも、と俊介は思う。
これから俊介が言わなきゃいけないことは、きっとこの先の関係に大きく関わること。
そして……彼女を傷つけてしまうかもしれないと言う事。
手紙の相手が仲の良いメンバーからと言うのが一番の誤算だったけれど、少なくとも俊介の返事は決まっていた。誰であろうとも。
「なぁ茜。俺は……」
ドサッ……
背中に衝撃。
身体の両脇から腕が伸びてきて、お腹の辺りでぎゅっと巻きついた。
背中の辺りに、息遣いのようなものを感じる。
茜が、抱きついていた。
心なしか、彼女の身体が震えているように見える。いや、震えていた。
「私は、梨乃みたいに素直じゃないし、梨乃みたいに可愛くない。負けてるところはいっぱいあるけど、一個だけ……梨乃には負けないものもある。私は、告白するのに躊躇しない。いつまでも踏みとどまらないで、ちゃんと伝えたよ」
「………………」
それは、彼女の独白。
同情とか納得なんてしてもらわなくてもいい。ただ知っておいて欲しいこと。
自分と梨乃は、こういう所が違うんだということを。
それをどう俊介が受け止めたかは分からない。
彼はゆっくりと返事をした。
答えはもう、決まっていたから。
「………………」
「…………ごめん、茜」
しばらくそのままの体勢が続いた後、茜がゆっくりと離れた。
「……あーあ、振られちゃった」
「すまん」
「あ、謝らないでよ。別に俊介は悪いことしたわけじゃないじゃん」
「………………」
「俊介には梨乃が必要で、梨乃には俊介が必要。ちゃんと言葉に出してあげないと、だめだぞ」
「あ、ああ……」
なんて言葉を返していいのかわからない。
ただ、俊介の気持ちも茜には分かったみたいだ。
逆に自分が諭されてしまった。
「あの子、かなり不安になってるよ。私も含め……あすかも、いろいろあったからね」
「あすかも?」
「ん。だから、今度は俊介の番。俊介が梨乃にハッキリと言葉を伝えて、梨乃を安心させてあげて」
「茜……」
さ、行った行ったと言う言葉と共に、どんと背中を押される。
最後まで茜の表情は見ることが出来なかった。
茜はどんな顔をして見ていることだろう。
気になるが、それは今俊介が知ることではない。
茜に言われたとおりならば、梨乃は今頃……
「(だから、さっき……)」
教室での梨乃の表情を思い出した。
とても不安そうで、今にも押しつぶされそうだった。
恐らく教室にはもういないだろうから、あとは……
「茜、俺……」
「ん。さっさと行け。このブタ野郎!」
俊介は、最後にありがとうと言うとその場を後にした。
じっと見つめる茜。俊介の姿が小さくなっていって、校舎の角を曲がって消えた。
いま、この場には茜しかいない。
「……まったく、こんな時にありがとうじゃないよ。バカ」
小さく呟くと、空を仰ぎ見て誰に言うとでもなく言った。
「それで、アンタはいつまでそこで見てるの? 梢」
『!』
近くの植木がガサッと揺れた。
その植え込みの影から出てくる一人の女の子。
茜とそっくりの見た目で、髪の毛の一部をボンボンという名の髪飾りで結わっていた。
彼女、梢からも茜の表情は見えない。
なぜならば、梢は茜の後ろにいたから。
後ろから見守る形でそこにいたのだから……
「あ、茜……」
「まぁ、こうなるかなとは思ってたけどね。……実際言われると、結構、くるね」
「あかねぇ」
「……ね、梢」
くるりと、茜がこっちを向いた。
梢が見たのは、ニッコリと笑いながらも、両頬を涙が伝う茜の姿だった。
「帰ろうか」
その瞬間、梢の瞳からも涙が零れた。
〜時は少しだけ遡る……
梨乃は探していた。
俊介のいる場所を。手紙が示したという場所を。
中身を読んだわけじゃないから、一体何処にいるのかは分からない。
だからこそ、梨乃は探している。彼らがいそうな場所を。
屋上・体育館・音楽室・美術室・保健室・視聴覚室・その他準備室などなど。
その何処にも探している人はいない。
今日は部活もないからどの特別室もガラン…としていた。
一体俊介は何処にいるのか?
教室を探してもいないとなると……。
ふいに目に入る外の景色。
「(外、かな……)」
梨乃は人気のない廊下を駆けた。
昇降口にたどり着いて、無造作に上靴を下駄箱に放り込むと、しっかり靴もはかないまま外へと飛び出た。
中庭か、校庭か、部室棟か。
そのどれかにしても、梨乃達の普段使っている昇降口からの一番の近道は校舎裏を通っていくこと。
いわばショートカットというやつだ。
ここを抜けたら校庭だ……と思ったその時――――
「っ!!」
梨乃は、凍りついた。
彼女の視線の前方に、俊介がいた。
そして、そのすぐ後ろに……
「(あ、茜……ちゃん?)」
茜が、俊介の後ろから抱き付いていた。
声は聞こえてこない。それなりの距離がある。
でも、彼らがどんな風になっているかはハッキリと見て取れる。
不意に、梨乃の視界が揺らいだ。
落としそうになった鞄を、必死の力で握り締める。
さっきまでの自分がウソみたいに弱ってしまった力で。
自分は……間に合わなかった。
彼女、茜は自分に言ったことをしっかりと実行していた。
それも、思ったよりも早く。
そして気がついた。あの手紙の差出人は、茜だったということを。
興味なさそうにしていたのも、実は演技だったということも。
茜は、梨乃が思った以上に行動力があって、決断力もあった。
それを今、イヤというほど痛感していた。
「(………………)」
梨乃は反対を向くと、足早にその場を後にした。
去り際に、彼女の目尻より透明の雫がキラキラと輝き落ちていく。
ただ、一刻も早くここから去りたかった。
もうなにも見たくない。なにも聞きたくない……。
彼女の心は、もはや崩壊寸前にまで亀裂が入っていた。
今の自分に、誰も手を差し伸べてくれる人間はいない。
梨乃はまた一人になってしまった。
それも最悪な結果をもって……。
誰にも会いたくない。私は一人でいたい。
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