「じゃあ、今日から籠原の事はこう呼ぶとしよう」


俊介がニコリと笑って言った。








::〜6月12日の発展〜::










俊介と梨乃が夕暮れの学校で出会ってから、カレンダーが一枚めくれた。

新緑も益々輝きを増し、まさに旬と呼べそうなほど太陽の光を受けて煌々と反射している。

空もどこか高く感じられ時期にやってくる夏を早くも連想させていた。

道路を歩く人も、半袖を着て歩く人がちらほらと見えてきた。

中には汗をかいてる人もいる。

そんな初夏を思わせるある日の事……


「Zzzz……」


やっぱりと言うか、俊介は寝ていた。

前にも触れたが、現在俊介は中学三年生。

当然ながら受験シーズン真っ最中だ。

本来なら黒板とノートを交互ににらめっこしながら授業に励むところだが……


「Zzzz……」

「く〜……」


教室の所々から聞こえる寝息。

見れば、他にも寝ている生徒がいるではないか。

よくある授業風景、と言えば悲しいかもしれないが、そこには受験とは関係なさそうな空気が流れていた。

教壇に立つ先生ももう慣れた事なのか、それとも諦めてしまったのか、なにも注意することなく授業を進めている。

空いた窓から時より入り込むそよ風が、寝ている俊介の前髪をさらりと撫でていった。


キーンコーンカーンコーン……


チャイムが鳴り、先生が教室を後にすると今までの静けさが嘘のように室内がざわめく。

今まで寝ていた生徒も、授業を受けていた生徒も、その目は輝きに満ちている。

まるで地獄から開放されたかのような、そんな……。

これもよくある風景なのだから。入ってきた担任も何も言わずにホームルームを始めている。

きっと、これをまともに聞いてる人は少ないだろう。


「さぁ〜てと、俺も帰るかねぇ」


さっきまで寝ていた俊介も、両腕を高く上げて体を伸ばした。

今日もよく寝た。ボチボチ帰るか、と考えながら先を行くクラスメートに手を挙げて挨拶をする。

あいかわらず軽い鞄を引っさげて、まず向かうは教室の後ろ側。

自分の席から右斜め後ろに位置する場所へ。

そこに座っていたのは一人の女子生徒。そう、梨乃だ。


「籠原、帰ろうぜ」


よっ、と声をかけた後、いつものセリフを口にする。

梨乃もうんっと頷くと、二人して教室を後にした。

それを見ている教室に残っていた生徒達。

皆が皆、同じような表情をしている。

ためしに一人の生徒の考えている事を出してみると……


“最近、千堂と籠原ってよく一緒に帰るなぁ……珍しい組み合わせって言うか、籠原って千堂と仲良かったっけ?”


と、不思議そうな感じ。

それもムリはない。

知ってのとおり、梨乃こと籠原梨乃はクラスでは浮いた存在だ。

家柄もあるが、彼女の内気な性格がそれを更に加速させている。

今まで学校では常に一人。

それが当たり前だったのに、最近様子がおかしい。

確か先月頃だったか……いきなり一緒に帰る人が出来たのだ。

それが俊介である。

もともとクラスも違うし、何一つ接点のない二人がこうして一緒に帰る事はクラスメートを多いに驚かせた。

『二人に何かあったのか?』これがクラスで共通した疑問だった。



「いや〜今日も暑いなぁ。まったくもってやる気がなくなるよなぁ」

「う、うん……」

「こう言うときこそ、何か冷たいモンでも食いたくなる」

「そう、だね」

「………………」

「………………」


会話が続かなくなった。

一緒に帰っているとは言え、何だか見ていると俊介が梨乃に付きまとっているようにも見える。

一方的に俊介が喋り、梨乃が頷く。

これを基本として、さらに梨乃は俊介にほんの少しだけ遅れるようにして歩いている。

俊介は思った。あの日、あの時見た笑顔とは何か違うなぁ。

あの日だけだった。

梨乃の笑顔が見れたのは。

ひょっとしてあれは単なる偶然? と思いたくなってしまうほど。


「……なぁ、籠原」

「えっ……なっなに?」

「率直に言うとさぁ……俺って、邪魔?」

「えぇっ? そっそんな事ないよ。ど、どうして急に…?」

「いやさぁ、あんまり面白くなさそうな顔してるからさ。ひょっとしたら俺迷惑かけてんじゃないかなって思って」

「そんな事ない、そんな事ないよ。千堂君はすっごく優しいし、私としてはすっごく嬉しいの。話し掛けてくれる人なんて、いつもいなかったから……ただ、ね。笑われちゃうかもしれないんだけれど……どんな風に返したらいいか良く分からなくって……他の人と話すの、苦手なんだ」


確かに、同年代の人とほとんど話したことのない梨乃。

苦手なのも無理はないだろう。

それを聞いて俊介が苦笑したあと、


「何にも気にすることないって。ただ思ったこと、そのまま出せばいいさ。肝心なのは自分の考えてる事、思ってることを言う事だぞ。黙ってたって相手がわかるわけないんだからな。それこそエスパーとかでもない限り」


と言った。


「う、うん」

「俺は、籠原の事もっと知りたい、仲良くなりたいって思ってる。友達としてさ」

「千堂君……」

「ん〜……ちょっと今のは言葉的に変だし、あつかましかったかな。まともにお互いのこと知らないのにこの発言はヤバいな」

「ううん、いいよ。私は、気にしてないから……」

「そうか? そう言ってもらえるとこっちも嬉しいけど……やっぱあれだな。世間的な呼び方でいるから片肘はるのかもな」

「……世間的?」

「そうそう。俺は、籠原のこと苗字で呼んでるだろ? 籠原だって、俺のことは何て呼んでる?」

「え……千堂君、だけど」

「だろ? お互いに苗字で呼んでるわけだ。なんか親しみに欠けるとは思わないか?」

「う、うん。少し……は」

「ここは、親しみを込めて相手を呼ぶべきだと俺は思うんだ。そうすれば、自然と楽にいけそうだろ? だから……そうだなぁ。梨乃っぺ」

「……へっ!?」


突然名前で呼ばれてびっくりする梨乃。

しかもよく聞けば名前の最後に“っぺ”というのが付いている。

これは一体……


「梨乃……ぺ?」

「あぁ、梨乃っぺだ。ただ名前で呼ぶのも面白みに欠けると思ってちょっと追加してみた。という訳で今日から籠原の事を“梨乃っぺ”と呼ぶことにする。何か意見は?」

「あ、いえ……特には」

「では、そう言うことでよろしくな。梨乃っぺ」


ニッコリと笑って言う俊介に、苦笑いをしながら頷く梨乃。

なんだかよく分からないけど……私、あだ名で呼ばれるようになったみたい。


「……ま、まぁ。全部が全部“ぺ”を付けて呼ぶわけじゃないけど。基本は名前で呼ぶよ。だから梨乃も苗字を呼ぶような感じで俺のこと俊介って呼んでいいから」

「う、うん……」

「もちろん、無理にとは言わない。押し付けるみたいで嫌だからな。最終的には梨乃の判断次第だ。名前で呼ばれるのが嫌だったらそう言ってくれ。スッパリ止める」


しばらく無言のまま立ち止まり、何かを考えていた。

やがて顔を上げると、俊介の目を見ていった。


「それじゃあ……こちらこそ、よろしくね。“俊介君”」


その時梨乃が見せた表情は、あの時と同じ……

あの夕暮れ時に見せた笑顔だった。



「それじゃあな〜」


十字路で俊介と別れた梨乃。

大きな夕陽を背負いながら家までの道を歩いてゆく。

ついさっきまでの事を考えながら……


『――――という訳で今日から籠原の事を“梨乃っぺ”と呼ぶことにする。』

『……ま、まぁ。全部が全部“ぺ”を付けて呼ぶわけじゃないけど。基本は名前で呼ぶよ。だから梨乃も苗字を呼ぶような感じで俺のこと俊介って呼んでいいから』


「はぁ……」


そしてため息。

これは嫌だったから出たのではない。

一息つこうと出たのである。

自分があだ名で呼ばれるなんて考えても見なかった。

そもそも、学校で他の人と、それこそ男の子と話せるなんて思っても見なかったのに……

あの日出会った少年は、自分の事を見て何も言わなかった。

普通の人と同じように、自分も見てくれた。

梨乃って、名前で……呼んでくれた。

梨乃の心の中に、何か暖かいものが流れ込んだ。

長年感じる事のなかった、心から嬉しくなるような暖かみ。

嬉しくて、涙がこぼれそうになるくらい、それは暖かかった。

そうだ、今日のことを日記にして書こう。

たとえ今日だけの出来事であっても、残しておきたい。

初めて感じた、“お友達”の感覚。

あだ名で呼んでもらえる嬉しさ。

そして……

自分が相手をあだ名で呼ぶという事を。




私は……今の私から、変われるかな?











も ど る