ONE YEARS AGO




物語には始まりがあり、そして終わりがある。 当然ながら、物語の“まえ”というのもあって……。
これは、その“いちねんまえ”を振り返った物語である。


今日もまた一日が始まろうとしていた。
水平線に一際眩しいものが姿を現したと思ったら、時間をかけずにぐんぐんと空へと駆け上る。
海の向こうから差し込む光に誘われて、街もまた眠りから覚める。
青くなり始めた空に雲はない。今日も天気は快晴なようだ。
また、暑い一日がやってくる…。
誰もがそう思わずにはいられない。
季節は夏……2008年の折り返しと、7月の折り返しをもうすぐむかえようとしているある日のこと。
内陸ヘ向けて徐々に高さを増す小高い丘の一番上にある住宅地。
その一角にある家から、一組の男女が出てきた。

「おーい、早く行くぞ舞」
「待って待って。靴がうまく履けな、うわぁっとと!!」

指を靴のかかと部分に突っ込んだままバランスを崩す舞と呼ばれた女の子。
危うく転びそうになった所をしっかりを抑えられた。

「そんなに慌てなくても置いてきやしないって」
「だって、お兄ちゃんが急かすからでしょう。こうやって……ほら、慌てなければ問題はないんだよ」
「俺は時間を気にしたい」
「私ままだ間に合う時間だもん」

そんな事を言い合いながらも、お兄ちゃんと呼ばれた彼はすでに自転車にまたがって準備万端といった様子。
早くと言わんばかりにペダルを軽く蹴っていた。
時間は……もうすぐ8時を回ろうというところ。

「俺は遠回りして学校に行くからな。お前に余裕があっても俺はぎりぎりだ」
「あーまたお前って言った! お兄ちゃん口が悪いよ」
「慣れだ。どうしようもない」
「そんな事言って……もう」

ぷっくり頬を膨らませながらも、自転車の後ろに腰掛けると兄の腰に腕を回した。
するりと動き出した自転車は、まだ静けさの残る住宅地を走り抜ける。

舞はこの時間が一番好きだ。
楽して登校できると言うのもそうだが、目に見える景色があっという間に流れ去る光景になんとも言えない幸せを感じるのだ。
だから車に乗っても電車に乗っても、まるで小さな子供のように窓からの景色に見入ってしまう。
特に自転車は……実際に風を感じられるからだろうか。最も好きな分類に入る。
そしてなにより、両腕を回した中に感じる兄のぬくもり。
妹から見れば兄の背中はとても大きい。そしてもっとも安心できる場所でもある。
だから舞はたまに兄の背中に全身で寄りかかる。もっとも、嫌がられる事の方が多いけど。
その背中が目の前にあって、更に自転車に乗って走っているこの時間が、舞は一番好きだ。
さっきお前呼ばわりされてムッとした事など、すでに遠い過去の出来事。
ついつい目を閉じて、幸せにどっぷり浸かりたくなってしまうくらいに。
ただ、そんな事を知ってか知らずか、とても良いタイミングで遮られる事になる。
何故ならば、腕を回しているのは兄であり、そしてほぼ毎日同じようなやり取りをしているからで。
今日もまた、目を閉じて兄の背中に寄りかかろうとしたところで――――






正直、この暑さ、辛いです…。

高瀬郁人はへばっていた。
7月も中ごろになって、まだ梅雨明けの発表もされていないのにこの暑さ。
つい最近まで涼しい日もあったくらいなのに、急に元に戻りつつある感じ。
そして今日、ついに今年一番目のセミの鳴き声を聞いた。
…思い出した。毎年夏はこうだった…。
だらしなく結ばれたネクタイが更にだらしなく。一つ開けていた制服のボタンを更にもう一つ開放。
ズボンからもシャツは完全に出ている。もう見るからに身だしなみなんて気にしてません的な格好。
ああ、早く学校について寒いくらいエアコンの効いた教室に入りたい……。

「……アンタ、なにやってんの?」

突然横から声をかけられた。
メンドクサイと思いつつ目を向けると、そこにはとても見知った顔。
警戒度バツグンの視線が郁人に突き刺さる。
ああ、やっぱりメンドクサイ。

「だらしない格好して。もっとビシッとしなさいよ」
「あー……それダルイ」
「なにそれ。男のくせに情けない」
「俺は素直なだけだ」

はぁっと誰が聞いても分かる位にハッキリとため息をつかれた。
それでも郁人は気にしない。だって暑いのが一番上にきてるから。
それにしても、と思う。
この暑いのにこの女……芹奈は全く暑そうにしていない。
額にはうっすら汗こそかいてるものの、郁人と比べればその格好は全くもって正反対。
こいつ、正気なのかと疑いたくなる。
これ以上考えてると余計に汗をかきそうなので、郁人は早々に考える事をやめた。
そんなことよりも、まずは学校・教室だ。
涼しいところに行かないとマトモな考えも浮かんでこない。
自分だって分かっている。今は脳みそまでトロけてしまっている事くらい。
郁人がのんびりと歩き出すと、芹奈も横へ並んだ。
二人は同じ高校へ通ってるから、こうして会うと当然ながら道も一緒になるわけで。

「なぁ、芹奈」
「ん? どしたの今度は」
「学校サボりたい」
「はぁ?」

当然の反応が返ってきた。
誰だって、いきなりサボりたいなんて言われればそうなるだろう。

「だってこの暑さだぜ? もう夏休みだろ」
「夏休みはまだ先。大体今でバテてたら、8月になったらどうすんの」
「部屋から出ないな」
「……はぁ」

芹奈からもう一度ため息が漏れた。
これはもう、どうしようもないと言うニュアンスも含まれている。
どうしようかと言わんばかりに首を左右に軽く振って、諭すように言った。

「去年の勉強で忙しい時期ならともかく、また高校一年目なんだからね。ヘンな格好して目つけられないように」
「へ〜い」
「ったく、これだから郁人は……」

その後も芹奈は何事か呟いていたが、郁人に届くことはなかった。
もう本能だけで歩いてる。ただ学校へ行くだけ……涼しい場所を求めるのみ。

「んまぁ、なんとかなるだろ」

という言葉が聞こえたような気がしたのは、果たして気のせいだろうか。






舞にとって、この時間は一番嫌いな時間だ。
せっかく続いたひと時の幸せも、この瞬間に吹き飛んでしまうから。
兄である喬に中学校の校門前まで乗せていってもらう毎日。
最初でこそ他人の目が気になっていても、今では何も感じない。
それは、いい。問題はその後……。

『あ、喬ー』

横から聞こえてくる、兄を呼ぶ声。
その声に気づくと、喬は顔を向けて笑顔を作った。
一人の女子生徒が近づいてくる。
彼女は今兄と付き合っている女の子であり、ここからすぐの所に住んでいる。
こういった事もあってから、兄は自分を学校前まで送るようになった。
そしてここから先は彼女を乗せて、坂の下にある高校まで走っていくのだ。

……そこは、自分だけの場所なのに……

舞の心の中に、真っ黒い何かが広がっていく。
でも、そんなのは表には出さない。
にっこり笑って挨拶だ。

「それじゃ、お兄ちゃん。私行くね」
「ん。おお。またな」
「行ってらっしゃい、舞ちゃん」

笑顔で言う彼女に、同じく笑顔で返す舞。
もちろん心の中では正反対の結果が出ている。
胸の中が煮えくり返る前に、早くこの場から立ち去ろう。
今日はまだ始まったばかり。朝からイライラしてたらどうにもならない。
この分は、兄と買い物に行ったときにでも晴らすとしよう。
絶対そうしようと決めた舞は、ちらりと視線を兄たちのいる方へ向ける。
今まさに二人乗りをして走り出そうとするところ。
兄が見せている笑顔は、自分に向けているのと変わりはない。
ただその意味合いが違うだけ……でも、その一点がとてもつなく大きい。
きゅっと胸元を押さえた舞は、今度こそ校舎へ向けて歩みを進めるのであった。






蒔田芹奈にとって、高瀬郁人はできの悪い幼馴染である。
付き合いこそ昔よりはなくなったけど、かと言って疎遠と言うわけでもない関係。
結局高校の選択も、お互いに似たような考えの下で同じになった。
やっぱり、近いと言うのは何物にもかえがたい長所である。
これが偏差値が低いとか、男子・女子高とかだと話は変わってくるが、ここは共学で偏差値もそこそこある。
ならば、地元民としても選ばないわけがない。
珍しく朝一緒になった幼馴染を横目に見ながら、芹奈は思った。
なんでこいつはこんなにだらしないのか。
今に始まったことではないが、もう少し自覚を持って行動してほしい。
これでも、子供の頃は芹奈を強引にでも引っ張っていくくらいの行動力と気力に溢れていたというのに。
目の前にいるのが同じ人間とは思えないくらいにだらんとしてる。
これじゃあため息が出るのも無理はない。
……私、なんでこいつのこと……
頭の中がごちゃ混ぜになりそうだったので、断ち切れ! とばかりに郁人の背中を叩いた。

「いった! な、なにすんだよ芹奈」
「うるさい。シャキッとしないから活を入れたのよ」
「んなもんこの暑さの中でどうしろっつーんだよ。余計に汗かくだろ」
「男なら気合で吹き飛ばして見せなさいっての」
「だったらお前だって吹き飛ばせるだろうな」

この次に来る言葉を、芹奈はほぼ完璧に予想できる。
こいつは、次に絶対に……

「女なのに胸が全然――――」

続きは言わせない。何故ならば、言い切る前に芹奈は拳を叩き込むから。
毎度のこととは言え、本当に懲りていない。
わざとやってるんじゃないだろうかと思ってしまうくらいに。
そして……

「いっぺん死んどく?」
「おお痛て……相変わらず乱暴だな芹奈は」
「アンタが吹っ掛けてきたんだろうが!」

そしてどうして、こういう時の自分は言葉遣いが悪くなってしまうんだろう。
これもまた、変わったと言えば変わったこと。
自分でも、直さないとなぁと思うことが多々ある。
ただ、原因を作ってるのが郁人なので自業自得だとも考えているが。
それにしてもこの図……女の子が男の子の胸倉をつかんで睨んでる光景は、とても他の人には見せられない。
芹奈がもっとも隠しておきたいことの一つである。
これでも学校では、ボーイッシュなイメージはあっても乱暴と言うのは無縁の状態だ。
だから、他の人が見たら唖然としてしまうに違いない。
郁人限定で、ある意味本当の自分が出せていると言うべきか。
これもまた、幼馴染と言う関係が今も残っている証拠だ。
たとえ薄れてしまっていても、変わらないものがある……。
そんな状態に甘えながらも、自分たちは変化していく。
これからも、きっと。

「ったく、早く行くよ! アンタのせいで遅刻なんてしたらたまったもんじゃない」
「やれやれ……」

今度は、郁人がため息をつく番だった。




物語の始まりは、まだそのカケラも見せていない。
しかし彼らの中では種となるものがある。
その種が芽を出して、花を咲かせるまでには、もう少しの時間が必要だった。
今日もまた、暑い一日が始まる……。
動き出すのは、一年後のその瞬間――――


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